ハルカの国 創作の記その2

進捗状況

日々、遅れている。
毎日、毎日、借金をつくり、未来に向けてしわ寄せを繰り返しながら、とぼとぼ歩く。
やばい、間に合わない、と焦っても走ること叶わず。
とぼとぼ、としか歩めない。
それが「ハルカの国」なのだ、どうやら。

まずもって工数が桁違いであるから、以前のように足取り軽くは歩めない。
以前は以前で「足取り軽く」などとは思わなかったけれども、今振り返れば「軽い」。

ハルカの国は圧倒的に絵が多い。
ネーム段階から考えればこれでも「泣く泣く我慢」を繰り返し、見せるべき場所と、抜く場所をシビアに設定しているつもり。
しかしまだ甘いのか。
数で見返すと、描き過ぎている。

それだけ見せ場が多いのか、と問われればそうでもない。
この度は体験版で披露する「明治・越冬編」を書いているが、淡々と過ぎていく日常があるばかり。
だがこの日常。やたらと手間なのだ。
考えてみれば日常とはあらゆる物事と地続きであり、不可分。
取り分け時代が明治であるから、現代以上に日常へ現れてくる物事は多い。
衣服はユニクロで求めるわけにもいかず、自前で仕立てる。貧しい山村であれば年に一度新調することなど叶わない。ほつれれば当て布をして補強をする。補強をすればその箇所は色がかわる、柄がかわる。その手間数は立ち絵に反映され、我が輩を苦しめる。
万事がこの調子。
時代や山村の貧しさ、それ故の苦しさが、そのまま作者を苦しめるのである。
苦しめられている。

しかし日常を蔑ろにすると、そこから転調する非日常も上っ滑りする。辛いだけのカレーのように、さっさと舌の上から味が引き、深い味わいを残さない。野菜、肉の旨みという基調があってこそ、スパイスはぴりりと効くのである。
日常は全てのシーンを支える。クリスマスツリーは華やかな飾りに目を奪われるが、それを支えているのは太い幹だ。幹は飾りや枝葉に隠れ、目には見えない。日常とはそういうものだと思う。
地味で、めんどくさい。
手間ばかりかかって、さほど注目されない。
それでも手を抜くわけにはいかないのが日常なのだ。

であるから。
淡々と日常を描いているはずなのに、時間を食うのだ。ハルカの国は。
明治、という旧時代を扱う難しさ。
予想はしていてが、上回ってきた。
遙かに。
ハルカの国だけに、遙かに。
最初は愚にもつかない駄洒落と軽い気持ちで口にしたが、この頃は縁起が悪かったと後悔している。
そもそも縁起が駄洒落の精神なのである。
待ち人ならば、稲荷にきくな。どこの稲荷もコンと鳴く。
こんな調子で物事を避けたり、有り難がったりしてきた民族なのだ。言霊の国なのである。
軽い気持ちで口にするんじゃなかった……!

ハルカの国、遙かに面白くなりますように。ハルカの国だけに……!

必死に手を合わす。
体験版、なんとか十一月いっぱいに間に合わせたい。
以下は雑記。

同人の本懐

個人的にはやりたいことをやるべきだと思う。商業では「Have to」に縛られて出来ないことを、とことこん「Want to」で貫けるのが同人ではなかろうか。
商業作家が羨むような、「俺だって自由に出来たらもっと……!」と歯噛みするような〝スタンス〟こそ同人の本懐ではなかろうか。
面白い面白くない、売れる売れないは二の次である。
大切でないとは言わない。二番目には大切。第一プライオリティの顔色をうかがいながら、エンタメも売り上げも最大値をとるよう、バランス調整をしていけばいい。
とりあえず我が輩はこのスタンスである。

道徳の焼き増しは嫌だ。
どこまでも作者の人生から拾い上げてきたもので語って欲しい。
嘘はついて欲しくない。
本音がどれだけ空っぽで、薄っぺらく俗であっても、嘘よりずっといい。
吐いて、吐いて吐き尽くし、胃袋をひっくり返してみても、結局出てきたのはゲロだけ。
憧れていたあの人のように、黄金を吐くことは出来なかった。
己の吐瀉物にがっくりくることはある。俺ってこんな浅い人間? 俗な思考?
嫌んなっちゃうなぁ。
嫌になってもそれが本物である。
道徳の焼き増しや、衒学をはっつけるよりマシだ。
誰よりも我が輩に言いたい。
自分の程度から目を背けるな。
最後の最後まで何も出なかったら、泣きながらゲロをかき集めよう。
これが俺でしたと涙をこぼしながらお目にかけるのだ。
嘘をつくより、ずっといい。
体裁のための嘘。
物語をきちんとさせるための道徳の焼き増し。
それをしなくて良い場所が同人ではなかろうか。
人が憎い
からは始まって
やっぱり人が憎い
で終わってもいい。
道徳で殺菌しなくていい。
それが同人の本懐ではなかろうか。
同人よ。
人の本物であれ、本物に誠実であれ。

誠実さ。
聞くも難しい、得がたきもの。
しかしそれこそ、君に求める。

ビリージェイルも「オネスティ」にてそう語る。

AKIMなので、悪しからず。
(あくまで、個人的、意見です、もちろん)

イデオロギーパンチ

造語である。
三週間前くらいに作った。

以前から気にくわなかった。
と言うとこの度の雑記は文句ばっか言っているようだが、色々とストレスが溜まっているのである。
ご了承願いたい。

何が気にくわなかったかと言えば、戦闘中に説教をすることがである。
舌を噛むぞ、お前。
そう考えてイライラしていた。

冗談はさておき、この戦闘中に説教はエンタメの手法として確立されたメソッドである。
「ベストセラーライトノベルのしくみ」では「とある魔術の禁書目録」を例にその効果絶大であることを披露している。
禁書に限らず少年漫画では十八番で、敵の人間性や思想を否定しながらぶん殴る主人公は散見される。
何故、説教をしながら相手をぶん殴ることがエンタメとして効果があるのかと言えば、ぶん殴った末の勝利が何重もの意味と価値を持ち得るからだ。
勝利の価値が増すのである、説教を入れておくと。
説教でなくてもいい。
勝つ前に一言いれておくと、そこらも込み込みで勝利が肯定してくれるのでお得なのである。

殴って勝っただけでは、それは腕力による勝利という一元的な価値で終わる。
しかし「お前は間違ってる!」とか「仲間を信じろよ!」と説教をいれて殴り勝つと、あたかも正当性によって相手を打ちのめしたような錯覚を読者に与えられる。
力の勝利に加え、イデオロギーの勝利も得られるというわけだ。
これが気持ちいい。

人間は意味を求める生き物である。
勝敗にも能力以上の道徳的意義を要求する。
正しかったから勝った。間違っていたから負けた。
特に創作物である物語内の勝敗は、能力や技術の有無以上にイデオロギーの是非と親和性を持つ。
「お前は間違ってる!」
と叫びながらのイデオロギーパンチ。これが決まれば気持ちいい。自分が身をおいている道徳世界も肯定されて、一安心。
ポリティカルコレクトによってぶん殴る気持ちよさは、SNS社会で生きる我々は了解済み。
間違っている奴は叩きのめされる。叩きのめされた奴は、間違っていたのである。

しかし、本当にそうだろうか?
現実世界はそういう風に出来ているだろうか?
漫画やアニメによって情操を育んだ少年少女が、イデオロギーパンチを現実に持ち込むとき。
物語世界のようにいつだってハッピーエンドが待っていてくれるだろうか?
勝者は正義で、敗者は悪であってくれるだろうか?
道徳的に正しいはずの我々は、諦めずに戦い続ければ最後の最後に勝者になれるのだろうか。
我が輩はそこに危険を感じる。
であるから、安易なイデオロギーパンチを最近、嫌悪するに至った。

我が輩もイデオロギーパンチの効果は認める。
使ったこともあれば、これからも使う可能性はある。
しかしふと敗者に目を向けたとき、その残酷さには打ち震える。
イデオロギーパンチは勝者を何重もの勝者に仕立てあげる。
一方で、敗者を徹底的な敗者へとかえる。
力で負けただけでない。戦略、戦術の不味さだけでも終わらない。
人間性、信条、思想をも、徹底的に否定されるのである。
本物の悪が負けたら、それでもいい。(本物の悪なんてねぇよ、と我が輩は考えるが)
しかし現実世界で負けるのは、勝者とそれほど変わらない、ただの人間である。
勝者には最大の快楽を与えてくれるイデオロギーパンチ。
しかし敗者にまわった時、全否定という苦しみに人は耐えられるだろうか。
思想の正当性によって負けたという事実を、受け入れられるだろうか。

先日、「日本のいちばん長い日」を観た。1967の方である。
無条件降伏を受け入れられない陸軍士官がクーデターを企て、一億玉砕の覚悟の上、本土決戦へと日本を引き込もうとする話である。
陸軍将校たちは涙を流しながら「本土決戦」を説くのだが、現代に生きる我々にはその姿が彼我の戦力差を理解できない無知蒙昧、利己的な欲求を満たすために国家を危うくする大罪人に写る。(かもしれない)
しかし彼らをあそこまで暗愚にしたて上げたのは、彼らの根幹が劣等だったからではない。
イデオロギーパンチによって情操を教育されたがために、敗北を受け入れられなかったのだ。
神国日本は正しい。
だからこの聖戦には必ず勝つ。
正しさのために命を懸けることは、人たる者の本懐である。
自己のためではなく、正義のために生きる。そして死ぬ。
それが正当な道なのだと、教え込まれてきた。
正当な道は最終的な勝利によって肯定されるのだと、信じ切っていた。
イデオロギーへの信望が純粋であればあるだけ、イデオロギーパンチの世界観では敗北を受け入れることは出来ない。
イデオロギーパンチの世界において、主観の敗北はないのである。エラーを起こす。
だから正義に殉ずるという回避行動をとる他なくなる。

降伏や撤退を戦略的選択肢として持ち得ない。
負けたら終わり。退いても駄目。
これだけ見てもイデオロギーパンチの危険性はわかる。
しかし我が輩が現実社会においてもっとも危険視するのは、イデオロギーパンチを利用する悪徳人間を蔓延らせる側面だ。
勝敗の如何をイデオロギーの是非に頼り始めると、戦略や戦術の軽視が始まる。
目的の正当性、尊さ、道徳的価値ばかりを誇張し、美辞麗句のボキャブラリーと演説能力に長けた提灯持ちが上層部や管理職に寄生し始める。
こいつらは正義に取りつくダニだ。
目的達成の方法、リソースの不足や、技術的困難さを訴えると、すぐに目的の道徳的価値に話を移し、あたかも此方がその目的価値を否定しているような論調をとる。

「ちょっと人員的にこのイベント打つのは難しいですね。スタッフに残業もさせられないですし」
「そうか。でもな、ご利用者さんを喜ばしたいと思わん? このイベントやったら、きっと皆めっちゃ喜ぶで」
「もちろん思いますけど、でも人員が……」
「ご利用者さんを一日でも幸せな気持ちにしたいと思わんか? お前、言ってたやん? 人が嬉しそうにしてるとこ見るの、好きやって」
「そうですけど、スタッフの数的に無理が……」
「お前はこのイベント成功させて、ご利用者さんを楽しませたいと思うんやろ?」
「ええ、まぁ……」
「やったら、その熱い思いをスタッフに話してみたら? 皆もお前の思いに応えてくれると思うで。うちのスタッフはご利用者さん思いのいいスタッフばっかりやから」
「でも残業代は出ないですよね?」
「お金の問題じゃないって。気持ちやん? ご利用者さん喜ばしたいって気持ち。その気持ちがあるスタッフだけがやればいいんじゃない? 残業代でんならやりません言うような奴、こっちから願い下げやわ。そんな金目的で参加するような奴がいたら、イベントが汚れるわ。そやない?」
「ううん……」
「イベントが成功した時のご利用者さんの笑顔、想像してみ? 出来んことなんかないって」
「はぁ……」

イデオロギーパンチの世界観において、作戦計画は目的の道徳的正当性によって是非が決まる。道徳的価値の下部にあたるリソースや技術の不足が作戦決行を覆すことはない。
常に第一プライオリティである「道徳的正当性」を勝利や成功によって肯定するために、〝何とかする〟ことが戦略戦術の役目となり、可能不可能は問題視されないのだ。

この状況は無能な上司、管理者にはもの凄く都合がいい。
「金を払いたくない」「サービス残業させたい」という本音を道徳でデコレートできるし、戦略戦術の困難を訴えてきた部下を、道徳的価値でねじ伏せることが出来る。
ヤンウェンリーのようにミラクルな作戦計画を思いつかなくとも、「正しいことのために頑張ろう!」で押し切り、反論してくれば「正しいことをしたくないのか!」と相手の人間性否定をチラつかせればOK! イデオロギーパンチの拳を鼻っ面の前に突き出してやれば、それで解決なのだ。
楽な商売もあったもんである。

イデオロギーを語りながら相手をぶん殴り、勝ったとして。
本来はそこにイデオロギーの勝敗は付随しない。腕力で勝っただけだ。
しかし説教しながら殴り勝つと、錯覚で正しいから拳の威力が増したように思える。
イデオロギーの正しさが勝利に貢献したように思える。
正しいから勝ったように思えてくる。
思えてきたら、危険だ。
貴方はもう負けられない。
道徳的に正しいという理由だけで、勝利と成功を約束しなければならない。リソースの不足は道徳的価値によって踏みつぶされる。
失敗と敗北は存在し得ない世界に生き、勝てなければ玉砕しイデオロギーに殉じることを強要される。
イデオロギーパンチを無垢に信じる貴方は。
ダニの格好の餌食だ。

正しいから勝つわけでもないし、間違っているから負けるわけでもない。
正しくても負けることはある。
敗北は勝利よりも身近なものだ。
そろそろ負け方というか、負けた後の生き方もエンタメは担うべきなのではないか。
エンタメにて情操を学ぶ少年少女にこそ、敗北も存在する人生を提示するべきなのではないか。
民主主義、自由市場経済が行き詰まり、勝つことが難しくなってきた世情において。
あるいは高齢化社会という青山なき現代において。
負けること、死んでしまうこと、それらを全否定しては生きていけないように我が輩は思う。

とりあえず安易なイデオロギーパンチを振り回すエンタメは、空っぽな拳でぶん殴ってやりたくなる。
イデオロギーパンチなんて幻想は存在しないってことを、空っぽの拳でブレイクしてやりたいものだ。

当然、これらはAKIMであるから悪しからず。

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