物語における家族の再生産と、演じなおし

まずは進捗、ハルカの国

作ることを楽しんでいる。この度はネーム形式でシナリオを描いているので、頭のなかにあるイメージをそのまま形に出来る。
見えている風景を言葉になおす――その過程で損なわれる情報量に苛立たずに済む。
絵が下手くそで気に入らないという能力への不満はあるが、それは言葉への還元に際して起きる絶望には遠い。
小説家を目指しながらそれが叶わなかったのは、世界を言葉で捉え、描写する能力が我輩には足りなかったのだと再確認した。
言葉を上手に使えない。これはずっと感じている。語れば語るほどに何かが損なわれていく感覚がある。だから描写は削ってきた。書き連ねた文字をデリートしていく時、間違いが正され、物語が妄想のなかで持ち得ていた美しさを取り戻していく感覚が好きだった。
文章は少なければ少ないほどに良いと信じていた。
しかし、それは〝下手に動くと失敗を重ねる〟という能力への不信から来ていたのかもしれない。
シンプル伊豆ベスト。
未だに信じている。削ることを愛す。このスタイルを変えるつもりはない。
だがそれは我輩の能力に見合ったスタイルというだけで、全ての物語に強制される鉄則ではないのかもしれない。
オープンマインド。また一つ〝こうでなければ駄目!〟という杓子定規の価値観から抜け出せた気がしている。

ネーム自体は冒頭のエピソードを描き終わったところで、60Pを超えた。
300枚くらい描いたら物語も終わるだろう、と考えていたが既に怪しい。ただ慣れていないために、不必要な場面まで絵に起こしている箇所もある。改善を重ね、この手法に慣れれば、よりスマートに進められるはずと期待している。

ただネーム作りは一度中断して、出来たところまでをUnityで一度組んでみるつもりだ。
Unityの勉強もちょろちょろ進めている。「超初心者向け」を銘打つ参考書兼練習ドリルも二冊ほどこなした。C♯も「書けなくても読めればいいや」くらいの感覚で参考書をペラペラ。
現状でどれほど出来るのか、自分の程度を知りたい。
現状を理解しないと、今後の学習計画が設定できない。何が足りなくて、どう勉強すればいいのか。
それを割りだそうじゃない、七月は。そう思っている。
Unityだけではなく、ビジュアル面でもどれだけ訓練が必用なのか痛感しておきたい。
痛感、痛みを感じて知る。これは大切なことだろう。
でないと勉強や訓練などしち面倒くさくてやってられねぇなのだ。もう参考書読むの飽きたし、練習問題を打ち込むのも飽きた。背景画練習するのも飽きた。
実戦の怖さってものを教えてくれよ、我輩に。
敗北の味を教えてくれ、そこから「燃えるぜ」と去勢を張るから。
うふふ、カッコイイでっしゃろ?

サッカー観てるから、スポ根的モチベ管理にはまってる。
ワールドカップ終わったら飽きるだろうけど。したらばまた別の遊びを探すだけのこと。モチベーション管理は己とのゲームだ。

上手く騙して、酷使してやろう。

本題

さて、今回の語りに入りたい。

雪子の国、作中。
陶芸の師匠が「人は半分呪われている」と言った。
半分は自由かもしれない。しかし、残りの半分は生まれに呪われ、どうしようもできない。
家に呪われ、場所に呪われ、時代に呪われ、国に呪われる。
人の半分は呪いで出来ている――と師匠は語った。
いや、語ってない。
実は初期にあった台詞回しをオブザーバーの友人に「もう一回考えて」と駄目だしをくらい、削除したのだ。
「作者が顔出してる」という指摘を受けた。
師匠がそういう思想を持っているのは不自然ではない。
ただ、初対面のハルタに「人は半分呪われてる」なんて強いフレーズを使うだろうか? 師匠のなかでハルタは人生観を語るに足る相手だろうか? 師匠という人間を押しのけてお前(我輩のこと)が出てきてないだろうか? 上手いこと言ったつもりになっている浅ましさがないか、もう一度自分の胸に手をあてて考えて欲しい。お前が思いついた台詞を、人生の先達者である師匠に言わせることで悦に入ってないかいま一度――もうわかった。我輩が悪かった。
となり、削除したのだ。

結局消してしまったフレーズだが、友人の指摘通り、気に入っていた。
人は半分、呪われている。半分は自由になれない。
半分どころでないかもしれない。九分九厘呪われていて、人に自由意思などないかもしれない――とさえ、思うことがある。
先日も上記の友人との会話で〝とんでも理論〟を発展させ、「やっぱ人って呪われてるよなぁ」とお互い納得することがあった。

この〝とんでも理論〟が面白かったので、しばし紙面を割いて紹介したい。この〝とんでも理論〟が、本題を語る上での起りにもなる。

とんでも理論

日本には二つの物語がある、と〝とんでも理論〟は展開する。
兄(長男・嫡子)に刺さる物語と、弟(嫡子以後)に刺さる物語。
つまり兄か弟かで、物語の刺さり具合、好みが変わってくると言うのだ。

結論から先に言えば、兄が好む物語は「仲間を守る物語」であり、弟が好む物語は「仲間を見つける物語」である、としている。
〝兄の物語〟の中で問われるのは責任を果たす能力であり、能力不信によって自己像への危機に陥る。
翻って〝弟の物語〟で問われるのは居場所や存在意義であり、存在規定の不安によって危機に陥る。
この理論の種としているのが、フランスの人類学者・エマニョエルトッド先生の「家族決定論」であり、これを面白可笑しく拡大解釈してとんでも理論を練り上げた。

種を割って少し詳しく語る。
強父権嫡子相続が支配的〝だった〟日本社会において、長男のイデオロギーと長男以後のイデオロギーは異なる。
嫡子である長男は家を相続し、家系を継続していく媒体として、生まれる前からその存在理由が規定されている。つまり生まれる前から「何者であるか」という問いは「〇〇家の相続者」として決定されているのであり、このために「自分は何者なのか」という存在理由の不安には陥らない。
長男が直面する問題は、「期待された嫡男としての能力があるか否か」であり、「家を守れるのか、大黒柱となって家族を支えられるのか」という責任への恐怖として現われる。
他人との関係において〝責任〟を過剰に意識し、何かあれば自分のせいだと思い込む。
友達と遊びに出かけて、盛りあがらなかったら自分のせいだ。
女の子をデートに誘って、つまらなそうにしたら自分のせいだ。
結婚して、家族を幸せに出来なければ自分のせいだ。
自己能力不信の最中にある長男は、とにかく対人関係において自己の責任を見つけ出し、それを恐れるあまり関係構築を拒否するという行動に出る。
この恐怖の反動、本来ありたい姿への憧憬、能力不信の克服体験として「窮地の仲間を助け、守り抜く物語」に親和性をもつ。

弟(嫡子以後)の問題、「自分は何者で、どこが居場所なのか」という存在規定への不安は〝たわけ〟という言葉で説明できる。
「たわけたことするな」
「このたわけっ」
古い言葉かもしれないが、聞いたことがあるだろうか?
戯け、と書き、ふざけたこと、道理の通らないこと、という意味で人を罵倒する際に使う。
この〝戯け〟だが、本来は〝田分け〟と書く。
田分け、とは幕政時代に分地制限令で禁止された〝兄弟間での遺産分割相続〟を指す。
田を分けて与えるようなふざけたことをするな。家が潰れる――というのが語源だそうだ。
ウィキ先生によると、分割相続を禁止した幕府は、課税対象である農民の財産が細分化し、零細化して税の回収が困難になることを防ぐ目的があった、らしい。日本史で習ったような気もするが忘れてた。
平成の世の中にあって相続の不平等は撤回されているが、それでも〝たわけ〟という言葉や〝実家は長男が継ぐもの〟、〝両親の面倒は長男がみるもの〟というイデオロギーとして、カビ臭さに鼻を摘まみたくもなるが、長男特別視観は生き長らえている。
この〝田を与えられるもの〟〝家を継ぐ者〟〝両親の面倒をみるもの〟という責任によって役割を規定されている長男とは違い、弟は根無しの状態に陥る。
「家は兄貴が継ぐだろ」という台詞を弟が発したとして、それは現代日本でも難なく人々の腑に落ちていく。それを是とするか否かはおいておいて、感覚は理解できる。
では「家は兄貴が継ぐ」なら弟である当人の「家」はどこにあるのか? 兄に期待し、兄を頼る両親ならば、弟の家族はどこにいるのか? 〝兄よりも自分に所有権のある家族〟とは一体誰がいるのか? 〝兄ではなく自分を選んでくれる誰か〟はどこにいるのか?
こうした観点から、弟は〝自分のもの〟を探して外部へ出る力に突き動かされる。
このイデオロギーからして、弟は「仲間を見つけ、自分の居場所、存在理由、自分を選好する他者を獲得する物語」に親和性を持つ。

とまぁ、このように〝とんでも理論〟は展開する。
極端な分類方だけを先行させ、繊細さを拒み、かつ理論を裏付けるデータ等は皆無な〝とんでも理論〟であることは念を押しておきたい。スカイプの会話で交わしたお遊びだ。
「人は環境に呪われてるだろ」と結論ありきで始り、この結論を補強するためために文献を引っ張り出して、「やっぱり人は呪われてるね」とお友達どうしで納得しただけのこと。

あてはまってなくても我輩を責めるなかれ。我輩だってそれほど真に受けていない。我輩は長男だがそれなりに「存在意義」について悩むこともある。たまにね。

このとんでも理論をお披露目してまで伝えたかったのは、理論の正当性ではなく、〝人は家族内で培ったイデオロギーに縛られる〟という側面があるのではないか、ということ。
これが我輩が師匠に言わせたかった〝呪い〟である。

この〝イデオロギーの呪い〟という観点で物語を読み解くとなかなか面白い。
そこで「雪子の国」を題材にとり遊んでみたい。
この〝遊び方〟を紹介するのが、この度の本題になる。
本当は最近やった他所様のゲームで「これを意図的にやってるなら天才やで」と思う作品があり、そこを語りたかったが、我輩が勝手に思っているだけの可能性もあるので、自作品で遊ぶ。

ちなみにこれから長ったらしく語るのは〝こう考えて雪子の国を作った〟というのでなく、〝こう考えることが出来る〟という後付けの理論にしたがった作品観察に他ならない。
作っている最中、いちいち以下のようなことは考えたりはしなかった。ただ自分の感覚で書いただけのこと。
その感覚で書いた物語が〝長男の物語〟にシンクロしており、奇遇にも我輩も〝長男〟であったから面白く感じ、披露するのである。

物語における家族の再生産~家族劇の演じなおし~

物語とはセカンドチャレンジであって、ファーストチャレンジではない。
シナリオ教本では〝主人公の欠けたパイを埋める行為が物語のアクションになる〟と教えられる。
主人公は最初から欠けているわけでなく、ファーストチャレンジでの失敗、敗北、喪失によって欠ける。
その欠陥を埋め合わすセカンドチャレンジこそが、物語として語るに足る劇的なチャレンジになり得るのだ。

ファーストチャレンジにおける失敗、〝得られなかった〟という枯渇感は、セカンドチャレンジにおける動機、手に入れたいという欲求を強力なものにする。それこそ「次失敗すればとても生きていけない」というほどに。
同時に、ファーストチャレンジでの失敗は主人公へ自己能力への不信を与え、挑戦することを恐怖させる。一度目の失敗のために大きくなりすぎた渇望も、挑戦が孕む失敗を意識させる故に、セカンドチャレンジへの恐怖を育てる。
死ぬほど欲しい。
けれど失敗すれば死んでしまう。
だから恐くてアクションを起こせない。
このように動機・欲求が最大値をとりながら、アクションの困難さも最大値をとる局面、主人公がもっとも不安定な状態に置かれる状況こそ、〝何かが起る瞬間〟であり、それが物語の始まる瞬間なのだ。

主人公は過去に何かを失った。失ったために、苦しみ続けた。今、それを取り戻すチャンスが目の前にある。二度目の挑戦。もう失敗は許されない。

では主人公は何時、何処で、何を失ったのだろうか?
これを今回は〝家族内における役目の失敗〟という観点と照らし合わせ考えていく。
その前提を敷きながら、答えを先行して獲得しておきたい。
主人公は何時、何処で、何を失うのか?
第一回目の、家族劇のなかで、愛と自信を失うのだ。

第一回目の家族劇、これを幼少期に参加する社会と定義し、〝初期家族〟と呼んで話を続けていく。
初期家族という社会のなか、人は何を望むか。それは絶対的愛情による自己の肯定感と、そこからくる自己存在への自信だろう。
自分は両親(の役目をもつ演者)にとって一番の存在であり、もっとも愛されている存在なのだ。だからここに存在しているのだ。
という絶対的愛情に裏づけされた存在への肯定感を、人は本能的に望む。これは「生きたい」という生存本能に直結する欲求だ。自分がもっとも保護に値する存在と確信できればこそ、幼少期は安心して過ごせるのだ。

この生存に必用だった「絶対的愛情による存在肯定」が何らかの形で損なわれることによって、人はファーストチャレンジ失敗による欠陥を抱える。

生きるために愛されたかった。誰よりも愛されている自信が欲しかった。
他者からの存在肯定の自覚。
これを得るのは難しい。一度得たとしても損なう可能性は日々溢れている。
この〝愛と自信の獲得〟を失敗する過程、敗北で受けた傷の痛みによって人はイデオロギーを構築していく。愛されなかった理由、自信が持てない理由が、〝家族の呪い〟として人生の随所に頭をもたげ続ける。

その呪いから抜け出し、傷を癒やす過程を物語のなかに探す時、〝家族は物語のなかで再生産される〟のである。
では見ていこう。

ハルタの演じなおし

ハルタはのほほんとしている。
のほほんとしているが、あれは他人を自分の〝恥部〟へ踏み込ませないための渡世術だ。
「俺には何の悩みもないよ」
「深入りしようたって、そもそもの深さを持ち合わせてないんでね」
「浅い人間なんだよ、元来」
という態度が彼のスタンスである。少なくとも東京時代の彼は、そう振る舞い、浅く広い人間関係の維持に努めてきた。(と観察できる。今後このことわりは省く)

ハルタはファーストチャレンジにおいて、手痛い敗北を味わい、そのために「愛と自信」を失っている。
そのために上手く自己肯定が出来ず、他人と関係をつくることを恐れているのだ。
もちろん、「自分は背が高いし、スポーツも勉強もそれなりに出来るし、嫌われるってタイプじゃない」という自負もあっただろう。(結構嫌な奴やね)
しかしある一定以上の関係を築くとき、ハルタは人間関係を極端に恐れる。
継続的な責任が生じる関係。
これがハルタには耐えられない。

ハルタは童貞で、彼女がいたことない。
それはハルタが「彼女を楽しませて、守って、幸せにする自信がない」「失敗した時、失望されるのが恐い」という恐怖が原因でもある。
これらの自己能力への不信、失敗への恐怖は程度の差こそあれ、誰にでも存在するだろう。
しかしハルタは病的なほどにこの恐怖に囚われている。
何故か。
これが『初期家族内での〝役目の失敗〟による愛と自信の喪失』に起因するのである。

兄なれなかったハルタ、息子として負けたハルタ

ハルタの家庭では、母親の方が稼ぎが良かった。
母親の方が稼ぎ、父親が息子の面倒を見ることが多いという、前世紀末ではまだまだ珍しかった家族様式で成長する。
家庭内においても母と父が同等の発言力をもち、対等な存在だったため、ハルタは性別間での平等に敏感な感性を育む。これは成長したハルタの〝一面〟として残っている。
作中、窯元のお師匠が「女なのに煙草を吸う」とユリの喫煙を言及した際、ハルタが「師匠はそんな風に思うんですか?」と引っかかっていたのは、ここからきていると思われる。

このまま母と父の下に育てば、ハルタは性別間の平等をナチュラルに受け入れ、ガールフレンドにしても「一緒に努力して幸せになればいい」「何が起っても自分ばかりに責任があるわけではない」
と思うことができ、雪子と出会うまえに初体験も済ませていたかもしれない。
いや、そもそも雪子と出会うところまで〝逃げて〟はいなかっただろう。

しかし、ハルタの情操教育において、転機が訪れる。
妹の誕生。
母親が妹を身ごもった段階で、家庭内では今まで考えられなかったイデオロギーが蔓延していく。

「お兄ちゃんになるんだからね」
「男の子なんだから、妹を守ってあげるんだよ」
「妹が泣いていたら、貴方が助けてあげるのよ」

平等に対し、最大の価値をはらっていたはずの両親。
しかしここで彼等は〝世間一般の感覚〟である〝強父権長男特別視〟のイデオロギーを取り入れてしまう。
年長者が年少者を保護する。
男性が女性を守る。
兄が妹を助ける。
それは美徳であったにしても〝立場での不平等〟であり、それを両親は持ち込み、何気ないにしても繰り返される会話のなかでハルタにすり込んでいった。
それらは美徳であり、「良いお兄ちゃんになってね」という願いはハルタの自尊心を育てるものだったから、ハルタもそれを受け入れた。
この時点で、ハルタは両親から愛されていると感じており、愛されるに足るという自己肯定を保持している。自己能力の不信には陥っていない。
自分は〝良い兄になれる〟と信じた。
小遣いで妹へのプレゼントを買うというパフォーマンスもやってのけ、両親を喜ばせた。
「優しいお兄ちゃん」と褒められれば、本当にそうなれる気がして、妹の誕生を待ちわびた。
良き兄となることは、良き息子であることと、同義となった。
しかし、妹が生まれてくることはなく、ハルタは兄になれなかった。

妹の喪失は流産によるもので、ハルタに責任は無かったかもしれない。
しかしハルタの中で育っていた〝守ってやらなければいけない妹〟は、ハルタに兄としての自覚、保護者としての責任をしっかり植えつけた。
母の負担を減らすことで、妹を助けられたのではないのか?
自分がよりよい息子であれば、妹は生まれてくる事が出来たのではないか?
自分の隣でプレゼントを抱え、「ありがとう、お兄ちゃん」と笑っていたのではないか。
両親が流産という結果に打ちひしがれる陰で、ハルタも兄としての自責に打ちのめされていた。

時を同じくして、両親が離婚する。
その後、父親は再婚し、娘をもうける。
ハルタは父親の家に遊びに行った際、父親が娘を抱いている姿を見ている。
テーブルを挟んで座る、自分と、父と父の娘。
父親はハルタのことを「良く出来た息子」として扱う。
大人の事情を理解できる、十分に成熟した精神をもち、物事を冷静に判断できる。
そう考えている。
しかしハルタはそれほど大人ではない。大人として振る舞える技術を持った子供でしかないのだ。
父にとって絶対的な存在、最愛の息子にはなれなかった。
それがハルタが受け入れる他なかった答えとなった。
母親との生活も母の再婚相手が現われたことで、家(母)を支えるという役目から免役されてしまう。
見方によっては〝居場所の喪失〟に映るかもしれないが、ここでは〝能力不足によって役目全うできなかった〟という観点で母親との関係も見ていきたい。
こうしてハルタの初期家族におけるファーストチャレンジは終わる。

〝役目の失敗〟という観点で、ハルタのファーストチャレンジを振り返る。
まず〝兄として〟〝息子として〟の二重敗北が、ハルタの「愛と自信の喪失」に直結する。
加えて父親という演者の家族劇離脱という事件が、「家族間の絆でさえ絶対的ではない」として絶対的な価値への不信をハルタに植えつけた。母親の再婚はずいぶん後の事にはなるが、まだ高校生のハルタにとっては「家族は離れたりくっついたりする。他人との関係と変わらない」と見えてしまう。
物語の冒頭、ハルタが「飯は自分で買いました」「夕飯、俺も食べていいんですか?」「食事代、払います」とやたら金銭的な対等関係に拘るのは、彼のなかで「条件、契約によって結ばれた関係」こそが自然なものであり、信頼でき、安心する関係だったからだ。

「兄は妹を守るものである」「そんな兄であってこそ、愛されるに足る」という条件下での失敗と、それに続く初期家族の崩壊は、ハルタに〝自己能力への不信〟を深く刻み込む。
男女の関係においても、ハルタの中ではもはや平等ではない。
「年長者は年少者を保護する」「男は女を守る」という途中から書き加えられたイデオロギーは、「家長である父親が一家を背負い、幸福にする責任を負う」という日本社会において伝統的なイデオロギーと結びつき、その美徳面において簡単に肯定され、強化されていく。
妹を守れず、兄になれなかったハルタは、長兄の延長線にある家長になる自信がない。そもそも更新された「父親が家長、一家の大黒柱」というイデオロギーにおいて、ハルタにはお手本となる先例をがないのだ。母より稼ぎが良くなかった父が、最終的に家族劇を離脱したという失敗だけが存在し、成功例を目にしたことがない。

兄になる自信がない、父になる自信がない。
もっと言えば女性と関係をもち、相手を保護し、幸せにする自信がない。
能力不信にある長男にとって、責任は恐怖。
人間関係において、そこに長期にわたる責任が生じたとき、発作にも近い本能的な恐怖を感じてしまう。
こうして「愛と自信の喪失」は、ハルタにとって「兄としての自己不信」「父としての自己不信」「対人関係における責任への恐怖」として〝欠陥〟に転じる。

ではハルタの傷はいかにして癒えるのか?
失った「絶対的愛情」への信頼はどうすれば取り戻せるのか? 「兄として」「父として」「男として」の自己不信を振り払う方法は?
傷は、傷つけた相手にしか癒やすことは出来ない。
と言いきってしまえば、極端かもしれない。
しかしハルタが受けた傷は、助けられなかった妹と、自分をおいていった父によって癒やさせるのは事実だ。妹を助け、父によって選ばれることによってハルタの傷は癒える。
だから〝演じなおす〟のである。
再び兄となり、今度こそ妹を救い、絶対的な愛情をもって家族を守り切るために。
ハルタが望むか望まないかは別にして、彼は救われるために今度こそ〝兄〟にならなければならない。
この条件設定のなかで、物語が始まるために、タイトルが面白く響いてくる。

「家族は物語のなかで再生産される」
物語とは、演じなおしによって家族劇の改善を試みる、セカンドチャレンジなのである。

ハルタの救済過程

兄になりたい。
兄になれるかどうかわからない。
その強烈な二面性を持つハルタにとって、ホオズキ、物語序盤の雪子は、丁度良い〝疑似妹〟となる。

転校先という〝一時的な居場所〟という効果も、ハルタが持つ〝責任への恐怖〟を和らげる。
ずっとここに居るわけじゃない。ここで何が起っても、いつかは東京に帰る。
猪飼が指摘した通りハルタは〝狡い状況〟、優しく言えば〝補助効果のある状況〟において、〝責任の少ない兄〟を演じ始める。

はぐれ者たちのリーダーになり、ごっこ遊びに興じるのも、集団の長として振舞う練習になる。
本当の責任さえなければハルタは、寂しい思いをしている子、辛い思いをしている誰かを、片っ端から救ってやりたいのだ。
救ってやりたい、と言うよりは、自分よりも苦しい状況に誰かがいることが耐えられない。
ハルタの理想とする〝兄〟と〝父〟は、窮地に陥っている誰かを決して見捨てたりはしないのだ。
それは兄、父としての役目の全うであると同時に、〝選んでもらえなかった自分〟〝見つけてもらえなかった自分〟を投影しての、自らによる自己の再救出にもなっている。

猪飼への献身

猪飼が苦境にたたされたとき、張り裂けんばかりの感情で彼を救おうとしたのは、ハルタにとって猪飼が他人ではなくなっていたからだ。
猪飼の過去を知り、彼もまた自分と同じように「愛される自信」を取り戻そうと努めていることを理解した時、猪飼の挑戦はハルタにとって他人のものではなくなったのだ。
寒さの中、凍えていた猪飼はハルタにとって弟であっただろう。同時に、息子として敗北し、選んでもらうことが叶わなかった、あの日の自分だったのである。
また猪飼という同性への献身は、家族になるというポテンシャルを含まない相手への献身である。
責任負わない相手への現状精一杯の献身は、他人の人生に責任を負うことへの自己能力不信が頭をもたげてこない。
であるから、助けてやりたい、どうにかしてやりたい、という気持ちが恐怖に阻害されず、ダイレクトに表現されるのだ。
猪飼は危機から脱すれば、自分の足で立とうとする。自分の人生と自ら向合う。
自己責任で生きようと試み、自立心が非常に強い。
そんな相手だったからこそ、ハルタは猪飼との関係に心地よさを感じていたのだろう。

雪子を恐れ始めるハルタ

ホオズキと並ぶ疑似妹であった雪子なら、ハルタは受け入れることが出来た。
しかし彼女が外部女性として妻となるポテンシャルを示した瞬間、ハルタに恐怖が芽生え始める。
日本社会において立場が苦しくなっていく雪子。
不遇の妹を助けたいが、彼女の匂わせる〝女性〟がハルタを尻込みさせる。
恐いのだ。妻となるかもしれない雪子が。家族になれば、ハルタは彼女の人生に責任を負わなければならない。その能力に自信が持てない。
雪子は天狗として出自にもハンディキャップを負っており、そんな彼女を妻として、家族として〝幸せにする〟難しさにも戦く。
まだ初期家族での失敗から立ち直れていないハルタにとって、妻になる可能性のある妹雪子は重すぎた。

ホオズキの喪失

初期家族の失敗から完全には立ち直れず、雪子という女性を目の前に「助けたいけど、恐ろしい」と葛藤を繰り返していたハルタ。
そんな状況下で、ホオズキがいなくなる。
最終局面、ホオズキの救出は不可能と判断される。
しかし、ハルタはもっとも幼い妹(役目として)ホオズキを見捨てることは出来ない。
兄としての演じなおしを行なっている最中のハルタにとって、幼い妹ホオズキを意図的に見捨てることは、兄としての自己像へ完全な不能を言い渡すことになる。
小さき者を見捨てる行為は、かつて選んで貰えずに悲しみにくれた自分を見捨てることにもなる。
妹を失い苦しんだ。妹を助けられる兄になりたかった。悲しくて寂しかった自分を見つけて欲しかった。見捨てないで欲しい、助けて欲しい。助けてやりたい、救ってやりたい。
それらがハルタの人生に木霊してきた渇望とするなら、ホオズキを見捨てることはその全てに不能を言い渡すことになる。
だから、ハルタには出来なかった。
しかし、これはチャンスでもある。
ホオズキを命懸けで守ることが出来れば、兄としての役目を全うし、同時に家族への命懸けの献身(絶対的な愛情)を証明する事が出来る。
兄として、父として、選ばれなかった息子としての無念が、一つの行為によって全て救われるのだ。

ハルタはホオズキ救出に命を懸けることが出来た。この行為が、ハルタに兄として、父としての自己像を回復させる。過去の記憶のなか、生まれてこなかった妹との再会は、ハルタ自身が〝失敗した兄〟であった自分を許したことで叶った謝罪と決別だった。

そこへ雪子が降ってきて……

雪子がハルタに「結婚してください」と頼む。
今までのハルタにとっては重すぎ、耐えられずに潰れてしまう思いだった。
この時でさえ重かったかもしれない。
ホオズキに殉じるという〝死の覚悟〟よりも、雪子を妻として彼女の未来を請け負おうという〝生きる覚悟〟の方が、ハルタにとっては恐ろしい。
しかし、ハルタは挑戦を決意する。
ハルタは物語のなか〝家族を演じなおす〟ことによって、傷を癒やし、力をつけた。であるから、より困難な挑戦へと立ち向う決意が出来たのだ。

もちろん、雪子という少女のパーソナリティーやエキセントリックな愛情表現も、ハルタに力を与えてはいるだろう。
この度はハルタの〝演じなおし〟を観察してきたが、雪子の〝演じなおし〟も同時に存在し、それらが作用し合う結末として物語のエンディングがあるのだから。

伝えたくて、伝わらなくて

どうだろうか。
多少無理くりなところもあったが、これが「物語のなかで家族は再生産される」というフレーズが示す内容だ。
上記の観察ではハルタが何故〝妹の喪失〟に〝兄としての責任〟を感じているのか、十分ではなかったかもしれない。
生まれてこなかった妹に、五つかそこからのハルタがそこまで責任を感じるだろうか? それは説得力がある普遍的な感覚なのか? と自分でも迷った。
しかし生まれることの出来なかった妹を、選んでもらえなかった自分と重ね合わせることで感情移入したハルタは、両親からその存在を忘れられていく妹を自分だけは忘れまいと固く誓った。
そのなかで未遂に終わった兄としての責任を、ある程度の時間のなかで育てていった――とは考えられないだろうか?

考えられないかもしれない。
やはりとんでも理論だけ、家族内でのイデオロギーだけで物語を読み解くのは無理が生じる。改めて文章におこしてみると我ながら「う、う~ん、どうだろ」と頭を捻り、手が止まることが多かった。
ここまで長々とお付合いさせた挙げ句、不確かな終わりになって申し訳ない。

「家族は物語のなかで再生産される」
エマニョエルトッドの本を読んでいて、ふと思いついたフレーズだった。
それを頭のなかで動かしてみて、面白かったから友人に話した。
友人との会話も楽しめたのでブログのネタになるやもと思い、文章にまとめてみることにした。
途方もなく疲れた。
たった一つのフレーズを他者に伝える時、こうまで労力が必用とされるのかと唖然とした。あるいは我輩の伝達方法が下手くそなだけかもしれないが、改めて痛感したものだ。

文章で説明するのは、〝我輩は〟止した方がいい。
これだけ長ったらしくなるのだ。
我輩は伝えるとなると〝子細ことごとく〟という妄念に取りつかれる。
これを逃れる術は、上記の全てを「人は呪われている」という一言に託すしかないのだ。作中の人物同士でさえ100%の意思疎通はかなっていない風景を、描くしかない。

現実の我々だって他人に何かを伝えるのは難しいのである。作中の人物たちにも同じ苦しさを覚えてもらおう。
無理解や誤解のなかですれ違う〝仕方なさ〟を受け入れながら、伝わらない何かを自身のなかで発酵させ生きてもらう。
そういう無念のなかに生きている人物であればこそ、人々の心に届く物語を織りなす可能性がある。描くに値する〝美しいなにか〟を持っている可能性がある。そう我輩は信じる。

――と、文章力の拙さを擁護してこの度は終わりたい。疲れた!

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