熱狂の日々へ

パンツを盗まれたのが悔やまれる。
コミティア後の旅行中、大部屋のある安宿に泊まった。干し場があるので洗面器で洗った下着類を干していたら、カルバンクラインのパンツだけ盗まれた。隣の三枚千円はしっかり残っていたから間違えて取り込まれたわけではない。意図的に我輩のパンツを盗んだのだ。
こんなことならパンツと一緒に自撮り写真でもはっつけて置けば良かった。道の駅で売られる野菜よろしく、「私が作りました」でなく「私が二日続けて穿きました」とメッセージを入れておけば魔除けになっただろう。
プレゼントだったのに惜しいことをした。

実は小銭入れもなくしている。
千円しか入ってなかったから別にいいのだが、ことある事に思い出しては軽く傷ついた。

思考実験をしてみると不思議なもので、仮に「お財布お忘れですよ」とホテルから連絡があり、かつ五キロ程度の道のりならえっちらほっちら取りに帰るのもやぶさかではない。
しかしこれが「千円あげますよ」と言われたならとても五キロの道のりを歩いて受け取りに行こうと思わない。
往復十キロ。歩いて二時間近く。時給五百円。いらんわ。
となる。
「失ったものを埋め合わせる」という欲求と、「新しいものを得る」という欲求は例え中身が同じであっても、我輩の中ではイコールにはならないようだ。過去の失敗を取り消せることのほうが、未来で新たなものを獲得するより価値があるとみなす。

案外、我輩だけでなく、人は押し並べて得た物よりも、失った物に価値を大きく取るのかもしれない。
似たようなことで人は自分を認めてくれた者の言葉より、自分を貶した者の言葉をよく覚えているのだという。これは痛みや苦しみ、不快に対して敏感な方が、生存競争の過程において有利だったからそうだ。

失った物にこそ価値を見出し、自分を傷つけた言葉をいつまでも覚えている。
書きだしてみると生き辛そうな生き物だ。
しかし生物としてのシステムがそうであるから嘆いても仕方ない。身体の作りとしてそうなのだと諦めれば、いくらか楽になる。

パンツ一枚と千円失って、生きるコツを学べたのだからトントンか。
ブログのネタにもなるから儲けたかもしれない――と考えるのは、さすがに欲張り過ぎだろうか?
しかし身体が生きづらく出来ているのだから、頭の方は気楽でないとやっていけない。

皆様も落ち込むことがあれば身体のせいにして、頭はあくまで呑気にしてみてはどうか。鍛錬は必用だが、どんな時でも一握りの呑気が残っていれば、人は絶望しないようである。
パンツと千円程度で偉そうなことを言って申し訳ないが、改めて呑気の偉大さに気づいたのでここに記す。記さないことにはパンツと千円の喪失が儲けにならない。

熱狂の日々へ

枕を終えて、本題に入るため時系列を遡りたい。

五月五日。もはや一昔という気もするがコミティアへ参加してきた。
またその数日後には愛媛、広島旅行にも出かけた。
その最中で次回作についても決めたことがある。
なのでこの度のブログは少し長い。前後編に分けるかもしれないが、その判断は書き終わった後の我輩に任せる。長くなることを懸念するなら何故あんな冗長な枕を、と責めてくださるな。枕をやらないことには調子が出ないのである。いきなり本題を書きだしても筆先がのらない。リズムがついたところでようやく書けるのがこのブログなのである。

本編は三つのトピックに分けたい。
1、コミティアについて
2、愛媛、広島旅行について
3、次回作について
これをまた小題に分けて語っていこう思う。

コミティア

前夜祭

コミティア参加に際し、前日夜から東京に入った。
その日は懇意にして頂いている方と落ち合い、飲み明かす。
創作で知り合った相手であるから、自然、会話は「ノベルゲーム論」となる。特にこの度は「会話」について語り合った。
会話における〝音〟の重要性。同じ音、約束された音を返すことで、同じコミュニティに属していると認識しあう。日常会話は情報伝達よりも、音による同一性の深めあい、ミラーリング(模倣)の儀式の側面があるはず――そんな他所が聞けば「???」な会話に熱中。
動物は同じ音をだす生態に親近感を覚える。
日常会話は方言によるセッション。
意味を重んじて不協和音を作ると、日常会話からリアリティが消える。
話して、飲んで、食って、話して。
この時ほど幸福な気持ちがする瞬間も少ない。
その夜は相手のアパートにお邪魔したのだが、場所を移しても話し続ける。
止めどなく話していると外が白んできて、時計を見ると午前四時。
もうやめなければ、と思いながらも五時手前まで続けて、「明日やばいよね」ということで眠りにつく。数時間後にはビックサイトに向けて出発しなければならない。
調子に乗りすぎたと少し反省した。

創作について語ることが出来る。
案外、こういう時間が一番の褒美なのかもしれない。
ただその語り合いのなかで「ノベルゲーム100本ノックはどうなったんですか」と問われた。ギクリとした。覚えておいででしたか。

いつか謝罪せなばと思っていたのでここでしておく。
すんません……!

50本分書きためておいたのだが、現状の我輩と意見が食い違う。
雪子の国が大きな転換期となり、我輩のなかでも考え方が変わってしまったのだ。
それを反映出来ていないので見送っている。

申し訳ない……!

コミティア当日。なんで我輩のとこだけ?

不思議に思ったこと、と言うよりショックだったことがある。
ノベルゲームはサークル同士が集まり、一つの島になっている。
そこをお客が上から下ってきて、隣のサークルで新作を求め――隣のサークルで「これどんなゲームですか?」と尋ねる。
「光学迷彩でもはってたかな?」と首を捻りたくなるようなスルーが二度、三度あった。何故、我輩のブースだけ素通りなのだ。ノベルゲーム島にありながら漫画を売っているからだろうか? それにしたって一度くら手にとってくれてもよさそうなもの。現に我輩のとこ以外は都度都度足を止めているではないか。

何て言うかさ、ちょっと恥ずかしいのよ。両隣の品物がはけていく中、自分のとこだけシーンとしていると。
我輩が見栄っ張りだからだろうか。やたらそういう事が気にかかる。気にしないふりしているが、本当は気になってる。

とは言え、三十部持っていった漫画は最終的には売り切れたので満足している。ただ万々歳という気持ちになれなかったのは、自信がなかったからだ。
作っている最中は名作を手掛けている気持ちがしていた。初の漫画創作に勝手がわからず、試行錯誤の苦しみはあったが、出来るだけのことはしたという満足感もあった。
しかし、完成から日をおき、いざ本になったものを手に取ってみると「なんだこれ」と怖気が走る。

これは何の話なんだ。
なんで天狗の国の漫画に高校卒業資格の勉強シーンが出てくるんだ。何故、神通力が出てこない? なんで美鈴は飯ばっか食ってるんだ……!
ストーリーを考えた当初は、恐らく何らかの意図があったのだと思われる。しかし日が経ちそれを忘れると、セオリーを外していることばかりが目につく。
皆の期待を裏切るのじゃないか。国シリーズの漫画と聞いて、人々が期待したのはこんなものじゃなかったはず。美鈴の顔がまんじゅうみたい。もっと可愛く描けば良かった。もともと可愛くないから難しいけど。他所の漫画と比べると、絵が汚い。
見せ場がない。意味がわからない。
花輪和一をお手本にしたからだ。あれはお手本にしちゃいけなかったんだ。特別で、唯一無二のもので、とても我輩の手に負えるものじゃなかった。
調子こいて漫画なんか描くんじゃなかった。
これで国シリーズに愛想尽かされたらどうしよう。ああ、やっちまった。えらいことした。えらいことしたぁ……!
と、心中悶えていたのがコミティア当日である。

後々、読み返してみると、それほど悪くはないと思える。
自分で好き放題描いたから当たり前だが、我輩は好きだ。
しかし、当日は近年稀にみるネガティブスイッチが入っていて、まったく自信が持てなくなっていたのだ。

そんなバッドコンディションの中でも、やはり、嬉しかった。
漫画を手にとってもらい、購入してもらえた瞬間。
国シリーズの感想を頂けた瞬間。
このブログにも言及してもらえた瞬間。

「ブログも楽しみにしてます」

なんて言われて。
えーマジで? すんません、なんか偉そうなこと言ってて。あれネタなんで真に受けないでくださいね、えへへ。
汗顔のいたり。
しかしニヤけてしまうのは止められない。

創作に関わった方ならわかって頂けると思うが、面と向かって「面白かった」「好きです」「次回作期待してます」と告げられた時ほど嬉しいことはない。
中には「ファンです」なんて言ってくれる方も。

ファン? 我輩の? うっそー、へぇ、こんなことってあるんだ。
ファンなんて普通に生きてたら一生縁のないものだろうになぁ。
創作ってすげぇな。こんなことが有り得ちゃうんだものなぁ。

リップサービスだったとしても、構わない。
我輩は真に受けて、しかと心に刻み、ことある毎にハイレゾ再生しては幸福感に浸かるつもりだ。生きる糧である。

物語がなければ、出会うこともなかった方々と縁を持たせていただける。
この嬉しさや、有り難さは、尽きることがない。
同人ゲームを作っていて良かった~、と思える瞬間だった。

早春賦、手にとって頂き、本当にありがとうございました。
拙いものですが少しでも皆様を楽しませることが叶ったなら、幸いです。

ユニティとイングリッシュ

この度のコミティアには、ノベルゲーム部として参加した。
その打ち上げが参加人数30人を越える大所帯。
我輩などは誘導されるままに会場へ赴き、貸し切りの店内に「ほえ~」と感嘆詞を零していれば良かったが、この大所帯をまとめあげた運営の方々にはただただ脱帽した。
三十人をまとめあげるなど、我輩は考えるだに疲労してしまう。
事務処理能力、人としてのキャパの違いだろう。乾杯の折、運営の方々にお礼を伝えに回ると、苦ともしていない様子だったから余計に驚いた。

打ち上げは面識のなかったサークルの方々ともお近づきになれ、大変有意義な時間を過ごせた。
特にゲーム開発エンジンについてや、スチームにおける海外展開の現状について聞けたのは大きかった。

「〇〇さん(超大手サークル)とこは、自分で翻訳したらしいですよ」
「え、マジで……」
(なら我輩にも出来るのか?)

パイオニア根性は皆無だが、後追いの物真似だけはフットワークの軽い我輩。
どれ昔とった杵柄と、さっそく留学時代の参考書を引きずりだしていたりする。

自前で完全翻訳は難しくとも、いつか委託翻訳が叶った時、一通りチェック出来るだけの英語力は身につけておきたいと思う。
と言うのも、「音の問題は委託翻訳に任していただけでは解決しないのではないか」と話を聞くに感じたからだ。

日本語の〝音〟だったからこそ価値があった文章というものがある。特に我輩は情報を捨ててでも響きを優先してきた台詞回しがいくつもある。それを意味に頼って翻訳すると価値が半減どころかほとんど無くなってしまうのだ。
俳句の英訳にしてみても、イメージの飛躍は残せているかもしれないが、音やリズムはほぼ死んでいると我輩は感じる。逆に英語の詩などが翻訳されていると、何故こうも音がつまるのだ、と読んでいて気持ち悪さを感じる。

漢詩にしてみても、文字が持つ音によって平声、仄声の区別があり、律詩ではその配列に決まりが存在する。つまりその詩が持つ本来の音の連続、メロディーにも価値があるのであって、それを書き下し文として日本語に翻訳すると失われるものが大きい。

このように翻訳には「音の喪失」がついて回る。これを幾らかでも回復出来るか否かが、翻訳作品の出来を左右するかもしれない。
翻訳経験者の話を聞いていると、そう感じたのだ。

メロディーを気に出来るほど、英語力が身につくだろうか?
不安はある。と言うより、「無理だろ」とも思っている。しかし「無理だろ」と思いつつもやっている内に何とかなってきた事の多い人生だった。自分が信じていないことをコツコツやれる。到達や達成をいちいち夢見ず、毎日のノルマをこなすことに生甲斐を感じる。これは我輩の才能だろうからこの度もそこに頼って挑戦してみたい。

ゲームエンジンはUnityが良いようである。
調べてみると、面白いことが出来そうだ。

稲穂に物理エンジンをつんで、風をスクリプトで制御すれば、プログラムでアニメを描き出せるんじゃない?(わかっていないが業界用語を使ってみたい)

此方も何処まで出来るかわからないが、今まで諦めていた表現を追求できるかもしれないとワクワクしている。冗談ではなくアニメーション表現をやってみたかったのだ。激しいアクションシーンではない。風の表現をアニメーションで試みてみたいと、ずっと思っていた。

Live2Dというものもあるらしい。これも触ってみたいとそわそわしている。
この件は「次回作」のスペースでまた語りたいが、この打ち上げで教わったことでオープンマインド、世界が広がったような気持ちがした。
やりたかったことを、やれるかもしれない。
そう思うと凄くワクワクする。
現状、かなりやる気が漲ってる。実はこれほど充実しているのも近頃では珍しい。

雪子の国以後

雪子の国を終えて、正直、燃え尽きていた。
キリンの国、雪子の国を完成させたことで、やってみたい表現が無くなった気がしていたのだ。
勉強不足を棚に上げていただけと思うが、これはと思うシーンを思いついても「ノベルゲームじゃ表現できないしなぁ」とくさる事が多かった。
漫画創作をして感じたことだが、やはり「やってみたい」と思うことを「やれる」喜びは大きい。果てしなく辛かった漫画創作も「やりたかったことをやれる」「挑戦できる」という原動力によって成し遂げることが出来た。
同じだけの辛さを雪子の国の延長線に味わっていたら、正直、挫折していたように思う。

新しいことにチャレンジ出来る、今まで出来なかった事が出来るようようになる、その期待感こそ我輩にとってのモチベーションなのだ。
住む場所も、つき合う人も、やっていることも、とにかく飽きやすい我輩である。
一度やったことを再び繰り返すことはこの上なく苦痛だった。

もちろん、物語毎に必ず違いはある。新しいチャレンジはある。だがそのチャレンジが前回よりも大きく、困難でなければワクワクしない。前回よりもリスクの少ないチャレンジは、ひたすら「失敗したらどうしよう」という恐怖にだけ支配される。
達成を信じられないような挑戦、けれどもし達成できたら最高に気持ちいいだろうと思える挑戦、こういうものだけが胸のうちを沸騰させる高揚を与えてくれる。

今は何を見ても、「これも表現できるかもしれない」「この感じもゲームに出来るかもしれない」と興奮する。いちいち「無理だ」と目を背けなくていいのが嬉しい。
無論、我輩も大人であるから全てが叶うことはないとわかっている。十思いつくうちの、八九は技術的に、資金的に無理だと心得ている。

心得ているが、もう嫌なのだ。
「どうせ」「結局」と興奮を諫めるのは飽き飽きした。
気持ちばかりが先走って、行動と結果が伴わないのは〝ダサい〟。自分の程度を知ろうと分別くさくなっていたが、このスタイルにも嫌気が差した。
現実的なことを口にしていれば恥はかかなかったが、情熱が失われた。無理、無理、無理と繰り返していると、想像力が萎え物語を思いつくことさえ無くなっていく。
想像力を失えば、人生は灰色だ。味気なく、美しさも豊かさも消え失せ、不安と恐怖から逃れることに躍起になる。安堵だけが人生の慰めになる。
そこにもうウンザリした。
我輩は熱狂のなかにいたい。

だからもう、無茶苦茶な妄想をしている。
それこそ、映画のようなシーンを思いついても、「無理」と取り止めない。「最高」「素晴らしい」「ここであの音楽が、そう、完璧!」と伸び伸びと遊ばせる。そんなシーンをたらふく詰めた作品のことを考えると、それだけで胸が切なくなる。気持ちが清々しくなって、空を見るにつけ、水のはった田を見るにつけ、感動で溜息がでる。
自分の作品に酔いしれる。長らく忘れていた遊びを思い出し、今、本当に気分がいい。

この境地に至れたのも、打ち上げの席で多方面から刺激を受けたからに他ならない。
アドバイスをくれた方々には本当に感謝している。
もっともっと意見を交わし、刺激を受けたかったが、終わりが訪れ解散となった。
名残は尽きなかったが、本当に有意義な時間を過ごさせてもらった。

次回、誘っていただけたなら、新作を抱えて参加したい。
口だけの男にならぬよう、形あるものを持参して、再びあの時間へ参加したいと思う。これが今から楽しみで仕方ない。

次回、「愛媛、広島旅行」・「次回作について」
長くなったので、やっぱり二つに分けます。ごめんあそばせ

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