牡蠣のつく日々

五月に入り、そろそろ仕事やめるべか、と考えている新入社員諸兄も多いかと思う。
そんな方々の参考になればと思うので、我輩が仕事をやめる決意をかためた瞬間をご紹介する。

2016年、年明けの週末。部長に呼び出され、昇進の内示をうける。
そのまま飲みにケーションに移行し、その席で部長は語った。
「俺の夢は白ヒゲ海賊団をつくることなんや」
義理と人情でかたく結ばれた幹部(仲間たち)と会社を盛り上げ、病めるときはお互いを背負いあい、貧しき時は一杯の椀を分け合って、苦難を乗り越えていく。
そうしていつか会社が軌道に乗った時、幹部とその家族を連れてハワイへ行き、皆でバナナボートに乗り、バーベキューを喰らう。
「お前の子供と、俺の子供が並んでボートに乗ってな、遊ぶねん。それを俺等はパラソルの下で見てんねんな。夜になったらバーで今までのこととか、これからのこととか朝まで話すねん。めっちゃ楽しそうやない?」
部長はアルコールに潤った瞳をツヤツヤさせて語っていたもの。
「これが俺の夢。そのなかにお前もおるからな」
部長としては決め台詞だったのだろうし、我輩も確かに決意はした。
その数日後、我輩は一年後の退職を願い出る。

このエピソードをなぞって、貴方は「?」を頭に浮べるか。意味が通じてないと眉を顰めるか。
いや、このブログを覗くような貴方であるから、あえて描写しなかった心理を拾って頂けているのでないかと期待する。期待しているから以下は答え合わせであるが、「やっぱりね」「わかる、わかる」と頷くことが多ければ注意されたし。我輩と似るのは社会生活を送る上であまり誉められたことではない。昨日も妹に「兄ちゃんがまともじゃないから、母さんが仕事やめたら保証人がいなくなる。私、マンション借りられない。ローンも組めない」と怒られたばかりだ。ごめんちゃい。

まず第一にと意味を重複させるほどに言い切っておきたいのは、我輩はハワイなんかに行きたくない。熱海ならまだ良い。熱海にはうら寂しさがある。昭和という重力場から逃げ切れなかった、二十世紀の蜃気楼がそこかしこに立ち籠めている。そんな気がするから。(失礼)

第二に我輩はワンピースが好きじゃない。努力、友情、勝利と口にするのに、三度嘔吐かなければならいのが我輩であるから、その世界観を目指されると消滅する。わけても「白鬚海賊団みたいな仲間」というのが嫌だった。
我輩にも友人はいるし、その友人をとても大切に思っている。その友人たちを尊く思うが故に、横から現われて「仲間にしてやるからな」という厚かましさに耐えられなかったのだ。

部長も悪意があったわけでなく、純粋な好意として「お前は俺の仲間やで」と言ってくれたのだと考えている。彼にとって不幸であったのは、この世にはハワイにも白髭海賊団にもバナナボートにも家族ぐるみのバーベキューにも価値を見出さない人間が存在するということであり、我輩にとっての不幸は彼がそれを知らなかったことだ。

まとめるなら、我輩の退職理由は以下に要約される。
世界観の違う相手に、距離感を間違えられた。
我輩が憧れるのはスナフキンであって、ルフィではない。ムーミンと友達でいられるのは旅に出る時は離れてくれるからであり、もしもムーミンがついてくると言えばそこで友情は終わる。同じ船に乗っていないことで、わずかな寄港の間でのみあわす顔であることで、保たれる関係はあるのだ。

義理と人情でなく、給料と労働法によって関係を築ける相手だったら、我輩はやめずに済んだかもしれない。
退職願を申し出る方法としては、相手が飲み込みやすい理由をでっち上げることが肝要である。正直に話すのが一番なんてことは絶対にない。これは韓非子も言っているから間違いない。目上の者に自分の意見を飲み込ませる時、相手が飲み込みたくなるような味付けは必用なのだ。
我輩は以下の通りである。

「部長に夢語ってもらって、マジ嬉しかったんすよ、俺。すげー感動して。何より、あんな風に夢を語れるのって格好いいなって、本気で思いました。俺もこうなりてぇなって。でも、自分にはそんな夢ないなって、逆に気づいて。それで必死で考えて、本当にやりたいこってなんだろうって考えて、ようやくわかったんです。俺、部長のおかげで、本当にやりたかったことに気づけました」

もちろん素面ではないが、素面の頭で考えたことをアルコールの潤滑油をつかって並べた。コツは普段から相手が使っていた言葉を引用しまくることで、「部長がこう言ってくれたから」「部長に教えられて」「部長があんな風に語ってくれなかったら」とあたかも相手の人格、美徳がこちらの欲求を全力で肯定しているように仕立てることである。これは飲みの席で説教をたれてくるような人種には大変有効であるので、近いうちやめる予定がある諸兄は上司や先輩の言質をとり始めることをアドバイスとさせていただきたい。

さてここまでを枕にして、本題に入る。

心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする

つい先日まで漫画を描いていた。
ノベルゲームに疲れてこっちの水は甘いかと思いふらふら飛んでいったら余計に苦かったので引き返した。それが現状の我輩である。楽しめた瞬間もあったが大旨辛かった。しかし思い返せば創作はすべからくそうのようで、何にしたって我輩にとっては辛いようである。何であれ等しく辛いとわかれば今やってることで堪えようかと諦めもつくから、そういう意味で収穫はあった。
この漫画の冒頭、製本版では「かなしさは姿と音」という文句がつく。
本当のところ「心の底を叩いてみれば、どこか悲しい音がする」と夏目漱石から引用したかった。しかしあんまりこの一文が優れていて、優れているのが過ぎて我輩の漫画をくってしまうのでよした。
それで色々考え、出てきた言葉をのせた。それが「かなしさは姿と音」という一文である。
そこに少し触れたい。

呑気に見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする

この一文に出会った時、我輩は心底すくわれた気持ちがした。
良かった、良かった。うんうん、そうだろう、そうだろう。これで合点がいった、これで大丈夫、やっていける。という具合である。
自分に恋人もなく友達も少ないから、世の中の人間が恵まれているのを気に入らず、どうせいつかは一人になるんだと、蟻地獄の底でハサミをわきわきさせながら他人が落ちてくるのを待っている根性で言っているのじゃない。
と言って、別段これという解釈もない。ただ器を見つけて、その姿に惹かれたから、これからはここに生きることの液体を流し込み、形を受けてもらおう、これなら我慢ができると感じたのである。無人島に一つだけ持って行ける調味料を選べと命じられたら醤油を持参するように、人生のどの瞬間にも加味される風合を選べと迫られていて、そこにようやく「これなら」と思える言葉を見つけたという感覚である。枕で語ったハワイでバナナボートが嫌で仕方なかったのはこういう根性からきている。ハワイとバナナボートは醤油の味がしない。

漫画を描く参考に色々と諸先生方の作品を引っ張り出したが、なかでも参考にしたのが花輪和一の作品群。「刑務所のなか」「刑務所の前」を読んでドハマリし、単行本を買い漁った。かなりきつい描写もあるし、絵柄も独特なので万人にはお勧めしない。ただこの方の作品群には常に生きる上での寂しさや悲しさが描かれている。
特に秀逸と思えるのが「刑務所の前」に描かれたエピソードで、強欲な両親が火事で家を失い「なんとかしてくれ」「助けてくれ」と娘を頼る。「娘なのだから」と責め立てるように頼る。そんな両親に娘は巨大なわら人形をあんでやり、「これにしがみつけ」とわたす。「地獄のような寂しさに、何かにしがみつかずにはいられないだろう」と告げる。両親は焼け出され、何もかも失った寂しさに、わら人形にしがみつく。爪をたて、脚で抱え込み、わら人形が潰れるほど強力にしがみつく。「いやだ、いやだ」「助けて、助けて」とのたうちまわる。

このシーンを繰り返し見る時、我輩はそこに自らを見つける。
他人に認められたくて仕方ない。誉められたくて、比較されより優れていると言われたくて仕方ない。エゴサーチをしている時など「今日も今日とて、餓えてんな~」としみじみ思う。頭で「浅ましい」と思いながらも止められないのだから恐ろしい。元々わずかな評価ににしがみつき、爪をたて、脚で抱え込んでいる。作っている時はあんなにも心は澄むのに、発表後はここまで濁るのかと感心さえする思いだ。

我輩はこの現象を「牡蠣がつく日々」と名づけている。船で海をいくと船底に牡蠣がつく。これが船の形を損なわせ、速度を下げる。美しい形を歪に変えるのだ。
この牡蠣をとるため、船をドックにあげる。ガリガリと牡蠣をはぎ、牡蠣付着を防ぐ塗料を塗る。船は美しい形を取り戻し、悠々と海をすべる。だがやがて、再び牡蠣はつき始める。海をいく限り、牡蠣の付着を防ぐことは出来ない。理想の形は損なわれ続け、濁り、歪み、速度を失い続ける。
海は人の世、牡蠣はその業。

花輪和一作品の優れたるところは、人間の業をフィクションの美しさで汚さずに描ききっているところだと感じた。魅力的な人間はほとんどいない。救いのない話も多い。しかしユーモアがあるから読める。読んでいくなか「どうしようもねぇなこいつら」と思える連中を見つめ続けることで、自分が許されていくような感覚がある。こういうところもちゃあんと見ていてくれたんだな、という有り難さがある。業にふりまわされる悲しい姿を見つめる目に救われるのだ。

振り返って夏目漱石の言葉に戻りたい。
「呑気に見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」
改めて我輩が引用するまでもなく名文なのであるが、我輩がとびきり気に入っているのは「見て聞いて見つけた悲しさ」ということである。
我輩にとって悲しさは心ではない。悲しさは姿なのだ。観測されて始めて成立する風景なのであって、個人の心に沸騰しているエモーションではない。猫によって見つめられた人間の姿が悲しいのであって、膝つきあわす人間自体が悲しさを自覚しているわけではない。

自覚された悲しさは鬱陶しい。描くには不味さがある。被写体が自分の悲しさを自覚していると、その映えを気にしてくるから野暮ったい。そういう自撮り写真はインスタにでもあげていればいい。
だいたい悲しさは風景であるから自覚は出来ないのだ。ミレーの落ち穂拾いは風景としての姿に価値があるのであって、個人を描いているわけではない。毎日おくられる営みのなかに普遍的な悲しさを感じるのであって、「あ、それ俺のっす」と人物が頭かきかき現われたら鬱陶しい。

人間とは風景のように思われる。ではその風景を観測するのは誰かと言えば、雲の上の神様などではない。恐らく巷の猫もそれほど人間に興味はないだろう。人間はやはり人間によって観測されるのだ。人間が人間を見つめた時にかなしさを知覚する。その魂の震えのうよなものが、我輩には救いのように思える。美しく、描くに値するものだと思える。

この度試みた漫画創作も、そういう心づもりで描いた。描いているうちに段々と初心を忘れ、何を描きたかったのかわからなくもなったが、とりあえず終えることは出来た。いやもう本当に苦しかったので、今後は週刊誌を読んでも軽々しく「おもんね」とは思わないよう心を改めたい。

ただその心がけも、そのうち牡蠣に埋もれることは、経験則としてわかっている。だからといって牡蠣をそがないのも手抜きだから、気づく度に船底を掃除していきたい。特に人を観察する目だけは牡蠣の付着に気をつけたい。漫画は期待せず見守っていただければ有り難い。では、会える方はコミティアで。

“牡蠣のつく日々” への9件の返信

  1. 突然のコメントもうしわけありません。
    雪子の国のパッケージのバージョンパップのパッチってもうダウンロードできなくなったのでしょうか?雪子の国のページへ飛ぶと「雪子の国楽曲一覧表」とDL販売しか発見できない状態で困惑しております。バージョンアップのパッチは不具合が見つかり削除されたのでしょうか?それとも期間限定だったのか、パソコンのハードディスクが故障したため可能でしたら再入手させていただきたいです。返信お待ちしております。

    1. お問い合わせありがとうございます
      もし可能であればメールアドレス等、個人連絡出来る手段を教えていただければ、ダウンロード出来るアドレスをお伝えさせていただきます
      難しければこちらに期間を限定してダウンロード先のアドレスを載せさせていただきます
      ダウンロードが可能な日、三日程度をお知らせいただければその期間公開させていただきますので、よろしくお願いします
      お手数おかけして申し訳ありません
      よろしくお願いします

      1. 追記
        5/15までは作業できる環境から離れていますので、申し訳ありませんがそれ以後でお願いいたします

        1. 返信ありがとうございます。
          私のミスからご足労をおかけして大変申し訳ありません。
          5/15までお忙しいとのこと、私に時間を作ってくださるのは申し訳ありませんので、パッチにつきましてはkazuki様のお暇な時間、Twitterなどに貼っていただければ、時間をちょうだいしダウンロードさせていただきたく思います。ご多忙のなかお手数おかけして申し訳ありません。

          1. 了解いたしました
            それでは5/16日より数日間、こちらのコメント欄にてアドレスを貼らせていただきます
            よろしくお願いします

  2. ver1.2ダウンロードさせていただきました。
    購入したパッケージから起動を行ったところ不具合は発生せずパッチの読み込みも問題なしでした。
    お手間をとらせてこのたびは申し訳ありません。kazuki様の次回作を待ちつつ、パッチを当てた雪子の国を周回プレイしたいと思います。陰ながら応援をさせていただきます!ありがとうございました!

    1. こちらこそ対応が遅れ申し訳ありませんでした。
      プレイ中、不具合がおこる報告が過去にありましたので何かありましたらお知らせお願いします

      1. 不具合を発生した方がいらっしゃったのですね。
        周回プレイ中、不具合がおこった場合また連絡させていただきます。
        親切に返信ありがとうございます。

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