試行錯誤

漫画を描き始めた切っ掛け

ノベルゲームは重い、と感じていた。

コンテンツとして消費してもうらまでの道のりが長い。パソコンにダウンロードし解凍しそれから遊んでもらわねばならない。現代のコンテンツ消費に必須であろう〝手軽さ〟が欠けている。

何よりスマフォで消費できない。これは致命的なのではないか、という思いがキリンの国発表当時より胸にわだかまっていた。それでティラノスクリプトに手をだしたり、Android版を作成したりと試行錯誤を重ねてみたが、結局、「ノベルゲームは消費するのがめんどい」という感触は拭えなかった。

気になった一秒後には消費していたい。

ワンクリック。

それが「ちょっと気になった」程度のコンテンツに対して、猶予される時間と手間数ではないだろうか。と言うよりも、世の中に「ワンクリック、一秒後に消費」というコンテンツが増えており、従来のような腰を据えて楽しむコンテンツは戦略的に厳しい戦いを強いられているのではないか。

ないか、ではない。確実にそうであろう。何も我輩が新発見したわではなく数年前から散々言われてきている事実としてそうなのだ。

ノベルゲームファンの皆様には「いや、ちゃんとPCにダウンロードして、世界観にどっぷりはまって物語を観賞したい」と思われる殊勝な方々もいらっしゃるであろう。

我輩もKeyLeafの名作たちをリアルタイムで味わってきた世代として、やはりノベルゲームは部屋に閉じこもり、じっくりどっぷり浸かりきって観賞したい。移動中にスマフォなどでは情緒が台無し、と思わないでもない。

が、白状しよう。

我輩は去年、ノベルゲームを一本もやっていない。

去年は雪子の国制作で忙しかった、というのもある。しかしまったく空き時間無かった、余裕のある期間が無かったかと言えば、違う。あるにはあった。

が、やってない。やりたいゲームはあったし、気になる物語もあった。

それでもやらなかった。

何故か。

重いのだ。

皆様もこんな経験ないだろうか。

レンタルショップにて、大本命の映画を借りる。それはアカデミー賞を受賞した名作で、二時間半越えの大作。人間心理を奥深くまで描ききった、ヒューマンドラマの金字塔。観た者全てが感涙せずにはいられない絶佳の作品。

――と三本セット割引のために借りた、どうでもいい二本。

もう何度も観ている「水曜どうでしょう」とか、昔好きだったドラえもんの映画シリーズとか、そういう新たに何か得ることもない作品。

で。

いざ帰って真っ先にセットするのは割引のために借りたはずの二本だったりする。それで予想通りの「面白さ」を得て満足すると、酒も回ってきてることだし、本命はまた今度にして寝る。

で。

返却期限がきて、結局観ずに返す。

アマデウス、菊次郎の夏、タイタニック、アメリカンビューティー、挙げれば切りがない名作たちが、我輩のレンタル履歴に残りながらも未視聴で返却されている。シンドラーのリストは三回目にして、もう今度こそは絶対観る、帰った瞬間セットすると己を律しに律してようやく視聴がかなった次第。

何故、このような事が起きるのか。

重い。

もうそれだけに尽きる。

人は重いものより軽いものを優先して消費する傾向があると感じる。

それは消費するまでの〝軽さ〟であり、消費する際の〝軽さ〟である。

感動、泣ける、ヒューマンドラマ、文学的、考えさせられる――もうこれらの文句が重い。求めて手を出したはずなのに、いざ口に運ぶ段になると躊躇してしまう。躊躇するだけならまだいいが、隣に〝軽い〟ものがあると、ついそちらに手が出る。手が出たもので時間が消費され、大満足とまではいかないまでもある程度満たされると、もういよいよ〝重い〟ものには食指が動かない。

Twitter、ソシャゲ、ニコニコ、Youtube、ネットフリックスやアマゾンプライムのアニメやドラマ――それらで常時ぬるく満たされ、がっつり食い応えがあるノベルゲーム(プレイ時間八時間)にまで辿り着かないのだ。

例えるなら常にポテチやジャガリコをつまんでいて、昼時も夕餉にも空腹を感じない。「ご飯ですよー」と呼ばれ、旬のメバルの煮付けと菜の花の和え物、艶々と輝く白米を出されても「うげ」と喉がしまって食べる気がおきない。

それが我輩の現状だ。

そう、我輩は現在、作品鑑賞において非常にだらしない食生活を送っている。ついつい目につく軽食をパクパク口にしてしまい、能動的に取り決めた観賞を行えていないのだ。まったく。

そんな体たらくっぷりに自己嫌悪を覚えつつも、やはり午後九時を回って手にする自由時間にはやる気(食い気)は残っておらず、今日も今日とてTwitterを流し見し、適当なリンク先にとび、シークバーを弄りながら動画を鑑賞し、一体俺は何をやっとるんだと虚しくなって寝る――その繰り返しの毎日である。

本当にどうにかしたい。

しかし翻って見ると、このような事態は我輩の身にだけふりかかった悲劇ではないようである。

昔ほど根気が無くなった、という悲しい話題で友人と盛りあがる昨今。加齢の影響も大いにあるのだろうが、消費者を取り巻く環境も大きく変わり、その影響も無視出来ないと意見を交わす。

一秒後の消費、ワンクリックというストレスレスなコンテンツが急増したために、消費者の忍耐も十年前より落ちてきている。その環境下において、PCへのダウンロードを必用とし、「泣き」や「感動」を売りにする長編ノベルゲームはマッチしていないのじゃないか。コンテンツとして圧倒的に重いのではないか。少なくとも俺はもうしない、お前のゲームは頼まれてるからするけど、他のノベルゲームはもういいや、めんどくさい、気になるゲームがあったらプレイ動画を探す、無かったら諦める――と、かつてのノベルゲームファンである友人は語る。彼も三十路を過ぎ、仕事や将来のための資格修得で忙しい身である。

我輩の目的は彼のような社会に出てしまった大人たちに、少年の日々をもう一度体験してもらうこと。永遠に思えたような夏休み、秋のせつなさ、白と黒の冬――そういう子供のころに感じた、果てしない世界を体験してもらい、リフレッシュして欲しい、という願いで物語を作成している。

つまり社会人に向けた子供の物語を描いているわけだ。

この社会人が、我輩も含めて、近年、めんどくさがっているのである。

感動? するかもしれないけど、めんどくさいからいいや。疲れてるしな。氷結ストロング飲んで、昔見てたアニメでも流し見して、寝るわ。

と言うのだ。我輩の心もまた。

これはあかん。

あかんが、彼等をノベルゲームの前に座らせる手立てが思いつかない。仕事で疲れている彼等に、「雪子の国(プレイ時間10時間)やってみて! あ、より楽しんでもらうためにみすずの国(2時間)とキリンの国(8時間)もあわせて遊んでほしいな!」とは言えない。サービス残業をばりばりこなしていた時代の我輩が言われたら「はぁ? 20時間も素人の作ったゲームやるわけねぇだろ。考えてからもの言え」となる。

もうヘトヘトに疲れてるから、帰ったら酒飲んで弁当食って寝たいのである。

だけど我輩はそんな人々にこそ国シリーズを届けたいと願う。

どうしたらいいか――と考えて辿り着いたのが、この度は漫画だった。

理由1、

一番忙しかった時、よくTwitterで流れてくる漫画を見てた。短く手軽であり、日常を描いたものが多かったのでストーリーを追わなくていいから疲れなかった。

理由2、

スマフォで観賞できる。

理由3、

高校生の頃、漫画家になりたかった。一度くらい漫画を描いてみたいと思った。

理由4、

なんか名作が描けるような気がした。

理由5、

ノベルゲーム制作がしんどくなっていた。(今は快調中!)

理由3、4、5はどうでもいいとして、1、2は大きな要因だ。

疲れてめんどくさがりになってる社会人のアンテナにとまり、「ちょっと見てやるか」と思われた上で、興味を惹けた方をゲームまで引っ張れないものか。

要するに「天狗の国シリーズ」の入り口を低くする目的として、スマフォで観賞しやすい漫画は有りなのじゃないかと考えたのだ。

何故、いきなり漫画を描き始めたのか。

答えは新規顧客の獲得のため、である。

これを友人に話すと「お前は馬鹿か」と言われた。

新規を獲得するための漫画が、何故既存作品の知識を前提としているのか。どころか「続編」なのか。

言われてみればそうである。いや言われなくても途中から気づいていたが、遅かった。

もうのってしまっていたのだ、気分が。

描いている内に夢中になってしまい、コンセプトを忘れてしまった。みすずの国で描ききれなかった様々な設定を披露できると思うと、わくわくしちまったのだ。

あいすみません。

まぁ実行段階における間違いはあったにしろ、コンセプトは悪くなかったのではないかと思っている。思いたい。新規お客様の獲得。これは結構急務だったりする。今のままじゃ新作が作れない。作れるけど恐らく次回作で力尽きる。現状の延長線で作っても、目の前の壁は打開できない。目の前の壁とは、我輩にとって「1000人」なのである。

1000人の人に、新作を買って貰いたい。現状、雪子の国の販売数が150本くらいなので、七倍近く伸ばさなければならない。これはけっこうツイキー。

〝これをすれば打開できる!〟というアイディアは現状ない。だから思いつく限りを行動に移すばかり。悶々とするよりは動いている方が気が楽な性質だ。

漫画とは別に小説を書いたりもしている。これもどうなるかはわからないが、何らかの形で皆様方にお披露目できればと思っている。

正直難所を迎えている国シリーズではあるが、安心して頂きたいのは「絶対に完成はさせる」ということ。資金調達やたら何やらで時間はかかってしまうかもしれないが、完成はさせる。これは我輩の使命としてやり遂げるので安心して頂きたい。努力しているのは「出来るだけ早く、間を開けずに作品を提供するにはどうすればいいか」であって「作りきれるかどうか」ではない。

キリンや圭介がどういう結末を迎えるのか、ハルタと雪子は――それらの物語をお届けせずしては死ねない。

とりあえずコミティア124にてコンセプトを裏切った「早春賦・前後編」を発表するので、出来ればお求めいただきたい。製本は三十~五十部作る予定なので、確実に売れ残ります。ネット販売もするので、よろしくね。おほほ。

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