ポスト真実

誰が悪い奴がいたら教えてくれ
すぐに駆けつけて、叩きまわしてやる
そいつが死んだって問題ない
今度はそいつを殺しや奴を、叩きまわしてやる
悪い奴をしこたま叩いて悲鳴を絞りだすのは、気分がいいぜ

誰かの事を言っているわけではない。
我輩のことを言っている。
先日、ある漫画の展開が酷いと話題になった。我輩も流し読み程度だが追っていたものだったので、「こりゃひでぇ」と口もとを覆った。
すかさず嗅ぎ回ってみると、編集者との確執が噂されていた。過去の経緯をからめ、まことしやかに伝えられていたものだから、我輩は信じた。
いや、嘘はよそう。
雑誌の路線変更をしたい編集長が、扱いづらいベテラン大物漫画家を切りにかかっている――そんな味付けの濃いスキャンダルに飛びついたのだ。
面白い。
我輩はその漫画のファンではない。雑誌自体にも思い入れはない。ただ義憤だけは揺らめいた。
どっちが悪い奴なんだ。
どっちを叩きのめしてやればいいんだ。
ネットを漁り、何の根拠もない個人の発言を「味よし」として鵜呑みにし、叩くに値する悪を着々と練り上げていく。
己が作り上げていく悪に水を差すような情報は疎んじた。本当は何の問題もなく漫画家と編集者の関係は良好であるなんて、そんな薄味はお断わり。
漫画家が己が作品を人質にとり、編集長の独裁に立ち向う。あるいは価値のなくなったロートルを切り捨てんがため、編集長は勇気の一手を放った。
どっちでもいい。
とにかく刺激的で面白い、味の濃いものが欲しい。誰か叩きまわすのに値する悪人が欲しい――その時、我輩は真実ではなく、エンターテイメントを探していたのだ。
おぞましい。
自分の姿に気付いた時、我輩はこの件から手を引いた。誰が何を言おうが、保留。
この件に答えは求めない。伝えられたものを真実か否か検証する方法は我輩にはないし、何より。
そう、何よりだ。
我輩は得た情報が本当がどうか調べるつもりがない。
真実がどうかを検証する労力をはらうつもりが毛頭ないのだ。
そんな輩は関わるべきではない。
我輩は常日頃から胸にあった言葉を自分に投げつけた。
「検証するのが怠いなら、黙っとけ」
はい、すいやせん。
ポスト真実。真実の次にくるもの。
それはエンターテイメント。面白くて、味の濃い、フィクション――
人々が情報の検証を怠る時、時代は暗愚へと揺り戻される。

とまぁ、本当にあった醜い話を仰々しく綴ってみたのだが。
ほんとーに、あの時の我輩は醜かった。
Twitterのタグ検査をかけ、最新の情報は入ってないかと更新を繰り返した。あそこまでおぞましくなれたのも、沖縄の孤島でヤニを切らし、深夜喫煙所の灰皿からシケモクを漁って以来だろう。おじぃ達が吸うピースとうるま(沖縄限定の煙草ね)ばかりだった。

先日発表した「むこうがわの礼節・知ることへの礼節」は上記のような事件(我輩にとっては事件だった)を踏まえて、公開に踏み切った。
踏み切った、と言うのは抵抗があったからである。
シナリオ自体は三年前に書き上げていたもので、そこに資料をあたって加味修正を行なった。
抵抗があったのは、第一に倫理観の問題で、今回のテーマをエンターテイメントの形をとる物語にしてしまっていいのか、ということ。
この負い目のようなものから、三年前は引き出しに突っ込んでおいた物語でもある。
それを今回、形にしようと決めた時、出来る限り誠実に資料にあたろうと考えた。真実を知れるとは限らないし、仮に真実なんでものがあったにせよ、それを鬼の首でも獲ったように掲げていいものでは無いと思うが、努力は怠るまいと決めた。
それで資料を探し始めてぶち当たったのが第二の壁である。
資料が少ない。迷信、因習の種類をおどろおどろしく紹介している妖怪データブックの類いは数あれど、学術的な視点に立って分析を加えている書籍が極端に少なかった。
図書館で探し始めた当初は、「そんなものないのか?」と思ったほど。それでもネットで調べる内に、三冊ほど見つけ、絶版になっていたのを古本で取り寄せた。
しかしこれらを読んでみても「資料が少ない」という不安は拭えない。
まず一次資料が少ないようで、三冊どれもが似たような案件を参照している。それでいて単一エピソードから推測を行い、「当時はこのようであった」と普遍性を取りだしているのは学術的な見解とは言い難い。言葉は悪いが堅苦しい言葉を使った妖怪データブックと変わらんやん、というのが正直な感想。
内一冊はフィールドワークを行なって、分布図を作成し比較検証を行ない、そこから普遍性を取り出そうと試みていたが、その母体数が少なすぎる。
ワイドショーの駅前アンケート(五十人への聞き取り)で日本国民の普遍性を示されたら、どうだろうか。
「偏ってるやろそんなもん」
我輩ならそう思う。
しかしこれは著者が悪いわけではなく、調査対象となる人々、あるいは協力してくれる人々が少ないための結果で、その点は大変な困難が生じ結果にも無念を感じているとは記されている。
結局、資料をあたってみても、「調べたから偏見を書いてしまう懸念は無くなった」とはならなかった。
それでも、資料をあたる以前よりは〝マシ〟なものが出来たようには思う。あえて言うのなら、「この説を支持する」という立場はとれた、というところ。

今後、我輩の物語に触れて頂くことがあるかもしれないので書いておくが、我輩には指示する「考え方」があり、そのバイアスは拭い切れない。
我輩は「マクロなものがミクロに影響与える」と考えており、個人の自由意思というものをあまり信頼していない。個人がある一定の思想や嗜好を持つとき、それは多分に環境から影響されていると考える。それは親であり、地形であり、風土であり、民俗であり、国であり、時代である。そういった人間よりも強力なもの、硬質なもの、巨大なものを、我輩は「国」と名づけて「国シリーズ」を始めている。「みすずの国」「キリンの国」「雪子の国」は彼等の居場所を求める物語であると同時に、彼等を削りだしたものを人物を通して描く物語でもある。
そんなわけで、我輩は「人の行動原理を、人よりも大きなものから答えを求めていく」という説に親和性を持つ。
そこを加味して物語を読んでいただくと、我輩には気付けなかった我輩の偏見を読者諸侯には見抜いていただけるかもしれない。

自分に偏見があるのではないか、という疑惑は恐ろしい。
しかし別の観点に立てば、「偏見がない」と信じるのはより恐ろしいことのように思う。
資料にあたるにしろ「ここまでしたから偏見はない。調べたから自分は正しい」と思うのは、検証を免罪符を得るためのツールに使っている事に過ぎない。
ソクラテスの「無知の知」ではないが、「間違ってるかもしれない」という恐怖を持ち続けることは必要だ。しかし、その恐怖を最優先にしてしまうなら何も出来なくなってしまう。このジレンマの中を、「無知への恐怖」と「知識への自信」という相反する重心を自覚し、弥次郎兵衛のようにバランスを取りながら生きていくことが、今のところ我輩の最善策ではある。
今回の「知ることの礼節」はこの弥次郎兵衛から引きずり出した物語であるから、未だに〝思うところ〟があるのだ。

ただ上記したように、自分の中に「ぶったたける悪者を探すエンターテイメント嗜好」を見つけ、「やべぇ」と震え上がったことで発表には踏み切った。
誰かを啓蒙しようなどと大それたことは思わない。卑下するつもりもないが、自分にそれほどの影響力があるとは思えない。ただ「叩きのめす悪者」を探しそうになる度、この物語を発表したというここを顧みて、「今の俺、やべぇ」と震え上がるようにしたい。誰が悪いのかを探して、Twitterの最新リストを更新し続けるような醜い姿は、金輪際、自分の人生に見たくない。
クリスマスに一緒に過ごす彼女もいない身の上だが、最低限の品格だけは保っていきたいものである。

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