3本目 ノベルゲームと小説は違わなければならない2

前回からの続きで、地の文が多いことで起こる弊害を見ていきたい。

三つ目の理由

地の文を書きすぎる癖があるとビジュアルやサウンドでの表現に手抜きが出てゲーム自体が面白くなくなるため、ということもあげられる。

ビジュアルノベルは読んで字の如く、ノベルにビジュアルがつく。
ビジュアルを使った表現が可能なのだ。例えば心理描写でも、書くのではなく、見せるという方法をとれる。

とれる、と言うよりはビジュアルノベルと銘打つ以上、ビジュアル表現を志すべきだ。以下では我輩が考えるビジュアル表現においての心理描写の〝妙〟を記したい。

表情がつけられるからこそ、裏情がつけられる。

ビジュアルノベルには立ち絵というものがあり、人物に表情がつけられる。

表の情とかいて、表情。

表を描けば、必然、裏という存在がうまれる。

表情をつける面白さとは、同時に裏の情も表現できることだ。

裏の情とは深層心理。表の情を海面に現れる氷山の一角とするなら、裏は海中にてそれを支える氷山そのもの。裏の情は人物の根幹をかもしだす。

これが何よりビジュアルノベルの楽しいところだし、我輩はこの手法が好きで多様する。

我輩は仮面の表現、と勝手にいっている。

仮面を描くことは、仮面の下に別の顔があることを読者に意識させる。

人は多かれ少なかれ他人との間にバッファ(緩衝地帯)を保とうとする。

よくよく観察すると、表情にこの行為がみられる。

例えば真面目な話をした後に、「とかね」と笑うその表情。

近くなった距離にステップバックをふんで、得意な距離に保ちなおしたのだ。

この距離感が裏の情であり、本人さえも意識していないかもしれない、性格や人間観のあらわれとなる。

裏の情はその瞬間瞬間の感情というより、人物の根幹が無意識な生理現象としての現われたものだ。

だから人物設定が甘かったり、キャラクターとのつきあいが短かったりすると、この裏情はわからない。しばらくつき合うとカンのようなものがはたらきだし、「こいつ、ここで距離をとりたがるな」とか「傷ついた顔は見せたくないだろうな」というようにわかりだす。

笑ってるからって心まで笑ってるわけじゃない。

そんな表と裏の情のつけかたが、立ち絵を利用することでくどくなくできる。

これを文章でやるといちいち自覚的なものとなり、おセンチな感じがしてよくない。

裏の情さえつけてやれば、心理描写をだらだら書かなくとも人物は深くなる。

人物は描写され表現されるものであり、書かれるものではない。

おまけ

ビジュアルノベルは見せなかったところを大切にするのが妙。

秘すれば花の言葉がある。

世阿弥の言葉だ。

我輩もそう思う。

ビジュアルと銘打ちながらビジュアル化されなかったところこそ大切にする。

逆説的ではあるが真理だ。

先ほどの仮面の表現もそう。仮面を描きながら表現しているのは下にある別の顔だ。

見せてしまう、という行為はただ単に絵に描いてしまうということだけではない。

言ってしまう、書いてしまう、やってしまう、それら全て秘せずは花なるべからず、なのだ。

ラブコメは「好きだよと言えない」から成立するのであって、言ってしまえばスタッフロールが流れてエンディングなのだ。

パンチラはスカートからわずかにのぞくからこそ価値があり、スカートを脱いだらワコールのCMなのだ。

人は秘密こそ知りたがる。宝も、お姫さまも、隠されるからこそ探しにいくのだ。

「キリンの国」で、キリンが圭介と別れ一人その悲しさに耐えている絵を描いた。

最初は仮面を外していたが、思いなおし、描ききった後で仮面をかぶせた。

ぐっと、表現が研ぎ澄まされた。

キリンの心が花となった。

悲しさや寂しさという言葉では切り取れない、アナログな感情を表現できた気がした。

秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。

この真理、地の文を書きすぎるとすぐ破ってしまうから注意されたし。

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